あなたのノイズ、わたしのミュージック。

自分が何にどう関心を示したかの記録。

雑記(202005271048)

これを書く必要が本当にあるのか否か、その検討の拒否を前提として書かれる文章。

今回は情勢とは一切関係なく、ただ唐突に思い出されてきただけの楽しかった記憶の吐瀉。


がんばれ!ポニーズ

生まれてから27年間、一瞬たりとも運動音痴でいなかったことがないために、
いつの私を知る人に聞かせても驚かれる情報として、
私の人生には地域の少女ソフトボールチームに所属していた1年間が存在する、というものがある。


誘われて加入したチームの名前は〇〇ポニーズ(〇〇には地域名が入ります)。
弱そうなチーム名でしょう。本当に弱かった。
なんといっても構成人数が9人、全員がレギュラー。
(地域の名誉のため?の補足:
けして地域に子供が少なかったわけではなく、むしろ生徒数1000人超えの小学校が乱立していた(地域バレそう)くらいの状況だったのですが、
それ故に少女ソフトボールチームも多く、隣接した学区に強いチームがあればそちらに人が吸われてしまい……。
この連鎖の果てにあったのが私加入時のポニーズでした)


9人しかいなかったので以後メンバーについては守備ポジションで示します。楽で嬉しい
プロフィルは現在の私が覚えている範囲のもの。


: 当時6年生。私を勧誘してきた幼馴染。色素薄めの美人さんだけど案外運動能力は高めで元気な一人っ子。お父さんが建築のデザイン関係?だったとかで、何度行っても記憶できないタイプの間取りをした広めのおうちに住んでいて、お呼ばれされるときはいつも楽しみだった。

: 当時6年生。確か上に兄弟がおり、勢いが男勝りなちびっこリーダー。多分この子のお父さんがメインのコーチだった。

: 当時6年生。寡黙ながらも着実に役目を果たすしっかりさん。どこの高校でも狙えるほどの学力があったにもかかわらず乗馬部のある学校に進学したと聞いたけれど、その後どうなったのだろう。

: 当時6年生。ひょろりはんなりな雰囲気で暗くはないけど内気なほう。第一印象は三とニコイチ。でもそこに私が入るようになっても柔らかく受け容れてくれた。思い起こしてみると昔から私の近くにはこのタイプの女の子がおり、割とちゃんと仲良くしてくれていたなあ、みんなありがとう。

: 当時6年生。二と同じマンションに住んでいた。当時から語彙が多く好奇心も深かったため、中学では当然のようにオタクの道に足を踏み入れていた。そうなる前だったはずの当時も多分いちばんお喋りした子。

: 当時6年生。チワワみたいな外見なのに気さくな振る舞いをしていてとにかくかわいかった。この子も運動能力は高かったはず。お呼ばれされたことはないけれど最も近所に住んでおり、太陽光パネルのついた二世帯住宅が(当時の私のなかでは)有名。

: 当時6年生。わたしです。肩が広かったのは惰性で習わされていた水泳のため、妙にデカくてゴツかったのはなんでも食べるクセに運動習慣のないため……。実家移転時期の関係で他の6年生メンバーとは違う地域の小学校に通っていた。

: 当時5年生。元来の気質からして多分6年生メンバーの半数よりもよほどしっかりしてた。外野メンバーで唯一まともな仕事ができる子だったのでひと試合あたりの運動量がいつも大変なことに……ごめんね……。この子のお父さんもコーチで、茶髪リーゼントにサングラスといういかつい風体でしたが非常に優しかったです。

: 当時2年生。一以上に喋らず、小さく線の細い感じの子で、とっても可愛い容貌をしていたのだけど見ているとハラハラしてくる、危うげな雰囲気を湛えていた。私と同じタイミングで加入だったはずだけど誰が勧誘したのだろう?この子は学区及び世代が違ったために新設されたほうの小学校に通っていたような……。


上記の通り、非常にごった煮……多様な人材によって構成されたチームでした。
戦績は超散々でしたが、レギュラー争いを経験しなかったためか、
エンジョイ勢的なメンバーで占められていたこともありゆるい雰囲気だったためか、
はたまた市大会の際に差し入れられるコンビニ弁当(いまでも麺類のコーナーに寄ると夏、校庭の木洩れ陽のもと二と三と一緒に食べた冷たいうどんを思い出す)が目当てだったのか?
活躍はできないとわかり切っていながらも、楽しく参加していました。

だいたい右と組むこととなった練習始めのキャッチボール、どちらも球を取るのが下手で、にこにこ笑っているうちに終わってしまう。
フライを取ろうとして見事に位置を測りかね、激突するまでの間見えていたボールの黒い影、そのあと噴き出した鼻血の赤に負けないほど強い色(当のフライを打ち上げた捕のお父さんがめちゃくちゃ心配してくれた)。
強豪チームのピッチャーが投球の際に意識の外で靡かせる長い長いポニーテール。私は彼女の球を打てたことがなかった。
大会のために市内のあちこちの学校へ赴き、自分達の試合のない時間に遊びまわった知らない遊具や設備。特に私立校の人工芝でできたグラウンドが最高だった、色鮮やかな緑。
ポカリとアクエリの味の違い、そして好みの違い(もうどちらも飲まなくなってしまったから思い出せないけれど、甘い方が好きでした)。
運良く取れた外野ゴロを運良くしっかり三に送球できたときの、ちいさな達成感とおおきなコーチやメンバー達の歓声。特に遊の声が大きかった気がするけれど、位置的な問題かも。
いつもの鈍いあたり(などと言えるほど打率は高くなかった……)とは明らかに違う、弾けたような感触をバットに残し伸びてゆくボール。足が遅いのでよほど良いところに抜けていかない限り塁には出られなかったけれど。


投は幼馴染であり私が運動音痴であることも知っていたはずで、
勧誘の話が来たときは(主に私の母が)めちゃくちゃびっくりしましたが、
メンバーの大半を占めていた6年生達に、チームとしての最後の1年間の思い出を残してあげたいという意思が(大人達によるものなのか投自身のものなのかはわかりませんが)あったのだろうと、
いまでは容易に推測できます。お役に立てていたのだろうか?

そして私達が卒業したあとに残るふたりのために、メンバーを探す動きもあったはずですが、
在籍メンバーの大半が卒業してしまう上、弱小チームでもあったために難航していたような……。
結局当時どうなったのかまでは覚えていませんが、
この記事を書き残すために現在の市内少女ソフトボールチームを調べたら、
まあ無くなっていましたね……わかっていても寂しいものだ。


書き始めてわかった。多分これ以降(も)、ソフトボールの話をせずにこの記事は終わります。


他校のしかしご近所の友人が一気に増えたことは、
当時通っていた小学校のクラスが学級崩壊状態で落ち着かない出来事の多かった私にとって、とてもありがたいことでした。
二と三の住むマンション付属の公園で彼女たちと日が暮れるまで続いたお喋り、たぶん一度や二度ではなく。
地域のお祭りの日、親達がかき氷の出店をしなければならなかった関係で子供達も半ば強制的に連れ出され、でもお小遣いは限られていて、最終的にやったのはその時じゃなくてもできるような追いかけっこ、でもこの日のスリルがいちばんだった。
投のお家で開催されたクリスマス会、親の出してくれた予算内で見繕ったネックレスがプレゼント交換で右の手元に渡り、包みを開けたとき静かに綻んだ表情が嬉しかった、自分が誰から何を貰ったのかなんて頭から消し飛んでしまうほどに。

そして6年生にしてこんな呑気な活動をしている子達だったため、
当然全員中学受験などするはずもなく(受験日になると6年生の半数は欠席するような地域だったはずなのに……)、
学区の違っていた捕以外は同じ公立中学に上がりました。
そこで今度は私自身が人間に対して不寛容になり、ひとり勝手に拗れてしまったのですが、
それでも特別距離を置くなどせず、会った時には普通に取り合ってくれたり、
あとそれまで直接話したことがなかったはずなのに、何故か初対面時から興味を持ってくれてた子の一部は結局チームメンバーの友人やご近所さんだったり。
完全な疎外を経験せずにあの時を乗り切れたのはとんでもないことだ。
(自分で蒔いた種のクセしてなにえらそにいうとんねんみたいなところはある、
この時期は本当に色々な人々に救われました)


成人式で数人に再会したのを最後に誰とも会っておらず、
この先はもしかしたら会わないのかもなって予感も(確信に近い形で)ありますが、
皆に出会えた当時の私は、相当ラッキーな子供だったはずです。

後に残ったのはこんなことしてたわって思い出だけでなく、
少しの時間を無邪気に共有するだけで友達になれる人は案外にいる、その認識。
(他の習い事や活動もしており、それらからも同様の認識を得てはいましたが、
この流動性のない小さなチームで対等に楽しくやれていた1年間は、結構大きいのかなと)
その認識を持つばかりになにものにも期待しがちで、傷付くことは現在でもままあるけれど、
そうでない自分にならなくて良かった。


昨晩お風呂でこのチームの存在を唐突かつ強烈に思い出し、
でもフルネームを思い出せるメンバーがごくわずかであることにも気がついて、
覚えている範囲のことを、ひとまず書き残したくなりました。
これ以上は忘れてしまわないよう、漠然とした感謝だけが残ってしまわないように。



がんばれ!ベアーズは未視聴です。せっかくだし映画だけでも見ようかしら……。