あなたのノイズ、わたしのミュージック。

自分が何にどう関心を示したかの記録。

2020/1/11 波多野裕文 「身体の木 / 記憶の森」 感想

2/8に行われる京都ワンマン公演を前にした復習、
あるいはその日を迎えるまでたしかにあった記憶達の留め書き。

1/11、代官山晴れたら空に豆まいてにて開催された、波多野裕文さんのワンマン公演「身体の木 / 記憶の森」を観に行きました。

波多野さんはバンドPeople In The Boxのメンバーとしての活動を(おそらく)主としていらっしゃいますが、
2010年代初頭?あたりからはおひとりでのライヴ・音源販売といった活動も行われています。

ソロ形態によるワンマンライヴも過去に数回は開催されていたようなのですが、
今回が私にとっては初めて体感するソロワンマンでありました(そもそもソロやPeopleのライヴへ熱心に通うようになったのがここ3年ほどのことだった)ため、
これまで観てきたような対バンの場合とパフォーマンスがどれほど違ったものなのか、
それを自らの感覚をもって確かめられることに、純粋にときめいておりました。


以降は当日書き残していたメモを基にした感想です。
印象か言葉かをとっかかりにして音楽を把握しがちな性質を持つ者の文章でありますため、
あまり仔細・正確なレポートではないことをご了承いただけますと幸いです。

※追記(2020/2/9):
聴き取った歌詞について、以降のライヴで明らかな聴き間違いを見つけたら打ち消し線で修正を入れていきます。
書き換わったのでは?と推測される箇所についてはこの日の自分の感想・解釈に響きそうな場合は追記する……かも?
(この記事はあくまで個人的な日記なので、自分にはどう聴こえてこう思ったといった記録は残しておきたく……)


オープニング

幕が上がり目に飛び込んできたのは、楽器達とそのうしろに聳える大きな木を模したセット。

拍手を受けながら波多野さんが入場、おもむろにシンセで鐘のような音を鳴らしはじめ、それをループさせてリズムを形成。
そのようにして作った音色を重ねてゆき、4種ほどの音で構築された音楽をバックに、開演の挨拶が始まりました。

話の内容はこの公演のコンセプト、それにも深く結びつくソロ楽曲群(既存曲・新曲)のありようについて。
以下概要ですが、ご本人の言葉を書き写したものではないので、意図と食い違っているものがあるかもしれません……私の把握したところではこんな感じでした、程度のものとして捉えていただけますと……。

過去曲と新曲について

ソロ形態における過去作(2016年発表の"僕が毎日を過ごした場所")には、フィクショナルな描き方のうちに、
なにか苛立ちのようなものに背を向け、旅立つ意思の感じられる楽曲が多く収録されていた。
ところで近年新しく制作しているソロ楽曲は、そうしようという意識があったわけではないが、その過去作の続編的な世界を呈したものになってきている。
いまそれを意識しながら過去作を洗い出してみたところ、それは記憶のような姿で立ち昇ってきた。

公演"身体の木 / 記憶の森"のイメージ

一本一本の木が沢山集まってできたもの、それは森と呼ばれる。
しかし、(各々が自らをもって認識しているような)人間の身体はどうしても固有のものであるため、あるひとつの身体を複数集めることは不可能である(複数の人間の身体がひとところに集まっていたとしても、それは個人個人が集まっただけの状態、それだけでその集合がひとつのものとして見做されるものではない(はず))。
ただ、ひとつの身体には様々な記憶が宿りうる。その数々の記憶を想起している状態、それは森のようだといえるのではないか。
ところで音楽は、それに触れたひとのある記憶を呼び起こしうる性質のあるものだ。
例え、その人の呼んだその記憶をその人が経験していなかったとしても。

過去曲・新曲にあらわれた類似や相違、また記憶をコールする音楽の性質を汲み、
"過去と現在を入り乱れさせる"という狙いをもってセットリストを検討されたことを述べられていました。

また、この時に『演奏面で珍しいことはしない』と宣言されていたその通りに?
この日演奏に使用していた楽器は日頃使用されているエレアコと晴れ豆のグランドピアノ、
前回のソロでも使用していたシンセreface CP(Bossのルーパーに繋がれていました)のみ。
各々を用いた弾き語り、またはシンセで組んだループに重ね演奏をするかといったスタイルでの演奏でした。


新曲・未発表曲の曲名は波多野さんご本人のブログ記事に掲載されていたものを引きました。
hatanohirofumi.hatenablog.com

1. 白い荒野

オープニング時にBGMとしていたシンセのループをそのままにし、波多野さんはグランドピアノへと移動。
その厚みのある音で鳴らされたのはこの楽曲のイントロの和音。
テンポこそループに沿っているものの、ループから独立した存在としてあるピアノの和音、
それに後押しされ、堂々と駆け出してゆく歌。

2. ぼくが欲しいもの(新曲)

ギターを手に取り、シンセのループを停止。
前曲の要素を断ち切って始まったこの楽曲の歌い出しは、
『風が強くて息ができない』

前曲にて駆け出したその先が、期待通りのものでは(やはり)なかったのだ、
と直感的に結び付けてしまったほどに、スムーズに突き落とされました。
また、People・ソロ通して波多野さんの書く詞で"風"という単語が暗めの文脈で使われていたことも珍しい気がして、
歌い出しのフレーズがより不穏を増して響いてきました。

2018年のライヴ企画"pickpocket"の際などに披露されていた未発表曲をさらにアップデートしたもののよう。
メロディの合間に差し込まれるギターフレーズ(個人的に緊急地震速報のようなイメージのある、神経を鋭敏にさせる効果のあるフレーズとして印象的なものでした)や、
『日々に備えて/花を飾って』付近のメロディ(歌詞も?)に原型が残っていました。
しかし、原型となっていた曲よりも的確かつ厳しい視点の詞にブラッシュアップされていたような。
『ぼくは永遠に生きてしまうんだろうね』といった諦念と怨念の詰まったひとことが焼き付いています。

3. 猿

皮肉なフレーズにまみれている楽曲。
これまでにも幾度となく披露されてきた、ギター弾き語りでの演奏。

表現形態のシンプルさもあってか、この楽曲のみに集中する聴き方ではなくここまでの流れを通してこの曲を検討できてしまう状態に。
曲が作られたタイミングも、各々の物語も本来バラバラであるはずなのに、
『猿が宇宙めがけ紙飛行機飛ばした』『神を信じていいですか?』という嘲笑的なニュアンスの籠もった言葉が放たれる度、
1曲目2曲目あってこそのこの達観だよなあ、みたいに思えてきてしまいました。
早速公演コンセプトに頭が浸されてしまっていた……!

4. 遠ざかる列車

『ときは2020』
ある意味満を持して現実へとリンクさせられるようになった、このフレーズからスタート(もしかしたらファンサービスの意も(ないか))。
エレピの音色が選択されたシンセで和音を添え、柔らかく本来の歌に遷移していきました。
昨年末に披露されたギターのアレンジの方が原曲に近いリズミカルさであったような気がしたので、
音色としてはこちらの方が近いはずなのに、意表をしっかり突かれたような。

この楽曲の発表時点で既に決定されていた数以上に沢山の、どうしてそんなことを、と嘆きたくなるような情勢が現在にはあるために、
実際2020年にこの楽曲を聴いているうちに"置いていってしまいたい"という叶わない願いが、見事なまでに自らの中で濃くなっていくのを感じながら、
しかし今年以降この楽曲が奏でられる場に遭遇したとしたら、その時の自分は何を思うようになるのだろうか、と思いが巡っていきました。
今年起こることに準拠したものにはどうしてもなるわけで、少なくとも現時点までではそれが期待の色を帯びていくようには思えないのですが。

ラスサビを歌い終わった直後にひと呼吸挟み、16小節ほどのスキャットへ。ここのフリーキーな感触も良かったです。

5. 人工衛星の王子さま(新曲)

ギター弾き語り演奏。
どことなく異国のような雰囲気、自分で書き残していたメモには"南米"とあったけど雑すぎるし言い得てもないだろう……。

この日、公演中に新曲群のタイトルはひとつも明かされなかった(もしかしたら既存曲も?)のですが、
『見渡す限り砂地の地平線/この星をおびやかすものはない』
という詞が序盤にあったために、SF的な舞台設定で現在を照射する歌詞なのだろうか、と身構えて聴いていた記憶があり、
のちに発表された楽曲タイトルは妙にしっくりくるものでした。

サビに『声がする 「武器を取れ」/誰の声?』といったフレーズがあったのですが、
ラスサビでは『おれの声』と切り替わっていた、この足元を掬われるストーリーづくりにこの書き手のらしさを感じました。
例としてパッと思いつくところだと旧市街とか……?

6. 帝国と色彩(新曲)

ギター弾き語り、サビでは珍しいほどシンプルにコードをストロークさせていたり、
Aメロに細やかなアルペジオが入っていたり(何故かペーパートリップを連想しました)、
バンド演奏にも映えそう。

歌詞の方でも、Bメロ・サビに押韻がみられたり、
サビで『帝国は渦を巻く』または 『帝国は虹をまく』 『帝国はねじを巻く』と歌った後に"クロック"というフレーズが7回ほど連呼されたり、
聴き流すことをさせてくれないフックが至る所に仕掛けられていて、良い意味で厄介。

その音楽をひとの耳に留める可能性は、演奏にも歌にも等しくあるのだという、至極当然のことを思わされました。

"クロック"、終演後のTwitterタイムラインでは"clock"じゃないか、という説が濃そうでしたが、
個人的には直前の歌詞との繋がりを鑑みて"黒く"ではないかと推測しています……歌詞の公開が待たれますね……。

※打ち消し箇所について追記(2020/2/9):
その前段の詞が『秩序を設計して』だったと思うので、
となるとこちらのあとの"クロック"は"clock"であるのかも……?
ちなみに『帝国は渦を巻く』の前段は『色彩を結集して』。
ダブルミーニング

7. ハリウッドサイン

記憶のなかにある音源での演奏と目の前で繰り広げられる演奏との対比が楽しかったです。
イントロのベース音から導かれたコードをギターのアルペジオで鳴らしていたり、
音源において打ち込まれていたリフは、唇を閉じたままトゥトゥと口ずさむ(少し歪んだ声色になる)ことで表現していたり。

詰め込まれた言葉を引き立たせるためか、歌が入っている時のギターはほぼ全編通して冒頭に示したものの繰り返し。
ラストのポエトリーリーディング(押韻はあるけど語気を盛っていないためラップと言って良いのか判断に迷う)、ここの初めの方だけ少し音色を長めに響かせるようにしていた?

8. 猛獣大通り(新曲)

ギター弾き語りでしたが、言葉が引っ張っていたような印象がかなりありました。
いや歌も演奏も美しかったと記憶してはいるのですが、初めて聴くタイミングであったにもかかわらず言葉のことを考えすぎてしまって……。

(どちらかといえばポジティブな)逃避を望む歌詞?
『最終列車とびおりて/空へおちていく/半永久的な猶予が欲しいの/空へおちていく』
といった、"空"に"落ちる"というイメージは過去作でも度々見受けられるものでしたが、
その用法が先に示したようなニュアンスをもったものだった(締めのフレーズは『空へおちていこう』だったし)、
『頭の中の獣/身体の外に出たがるの』
『ぼくは他のぼくではない/自由はすぐそばに』
『ぼくは他のだれでもない/自由はすぐそばに』
といった箇所もまたしがらみ(自ら設けたものを含む)からの解放、自主的に踏み出していくことによって為されるそれを描いていた、
タイトルの"大通り"が逃げ出すもととなるもののモチーフであるとも仮定して、そんなようなイメージを打ち立ててしまっていました。

作品にとどまらず新潮に掲載されたエッセイやそれ以前の連載・インタビュー等でもずっと検討されていたテーマである"自由"、
現在の波多野さんの言葉でそれが描かれているひとつがこの楽曲なのでは、とまで思ってしまった、考えすぎかもしれない。

※追記(2020/2/9):
『最終列車』の段、この公演ではこの通りだったと思うのですが、京都のワンマンではかなり書き換わっていました。
『最終列車かたむいて/すべり落ちていく/すべり落ちていく』
『半永久的な猶予がほしいの/ひとが落ちていく/空へ落ちていく』
また、『猛獣の騒ぐ大通り/懐かしいな/騒がしいな』といった歌詞もあり、
もしかしたら上記の解釈、けっこう的外れかもしれない……。

9. 同じ夢をみる

フェードアウトされゆく前曲のギターを少しだけ引き継いで始まった、過去作の代表曲。

この流れで改めて聴き直してみると、検討されているテーマとしては前曲に近そう、しかし。
当楽曲においても『明日が来たらぼくらはどこかへ放り出されるだろう』と、逃避への望みが感じられる詞が綴られているのですが、
ただこちらは"放り出される"、受動的な表現である(その後の歌詞では『心の準備もできないままどこかへ放り出されるだろう』とも)、
前曲とこの曲は似ているようで姿勢の異なるもの、というより考え方がより整頓された故に前曲のような表現となったのかも?
この時も頭の中で諸々を関連させることに忙しかった……。

ラスサビ後のスキャットが、高いところから落ちていくような感触のあるものであったり、
1番サビ終わりの『ぼくは知っている/この恍惚がながくは続かないこと』の際に流れを断ち、醒めた表情で向き直る様だったり、
やり慣れた曲であるためなのかもしれませんが、的確な表現を射てる、波多野さんの巧緻性の高さがよく反映されていた楽曲でもありました。
こちらに関しては、どのライヴで観てもこの楽曲で強く感じるところでもあります。要チェックです(回し者みたいになってしまった)

この8-9曲目によって構成された時間が、この公演のコンセプト"過去と現在を入り乱れさせる"がよく反映された、ひとつのクライマックスだったように感じられました。

10. 初心者のために(新曲)

グランドピアノへ移動、次曲まではピアノ弾き語り。
その豊かな響きに散らす、『ドア ベル 集まる視線』といった歌い出しの詞。
鍵盤を押し込む強弱、跳ねては2拍ほどかけて着地を設けるリズム、けしてわざとらしくないそれらの選択に、
この会場にグランドピアノがあったことへの感謝の念が湧きました。
日頃携えている鍵盤ではこの日の演奏の味は出せなさそう……。

『ビギナーズラックで/押し切るつもりで』というフレーズが繰り返し登場するのですが、
『やわらかいあまい世界/祈りは頼りない』 『やわらかいあまい世界/今はつらくても/祈りは頼りない』などの言葉によって、向こう見ずどころか見えるものは見渡した形跡が示されていて。
成功例を知らないまま継続してゆく世界への失望を認め、そのうえで歩んでいくための心算が、"ビギナーズラック"という句にあらわれているのでしょうか。

『帰り道は/あかりのない道を歩こう/ひとりで/ビギナーズラックで』、曲の締めくくりにこの歌詞を放つ勇気。

※追記(2020/2/9):
2番では『ハロー 理解しがたい世界/今はつらくても/気楽にやりなさい』という歌詞に。

11. 継承されるありふれたトラの水浴び(新曲)

新曲群の中でずば抜けて真っ直ぐに、厳しい言葉がしたためられていた楽曲。
メモを見返しても聴き取った歌詞の断片しか記されていない……。

『嘘をつくのは彼等も君も同じ』
『「今日までよくやってきたね/頑張ってきたね」/どうせそう言ってほしいだけ/誰にでもできる』
と突きつけられた言葉達のことごとくが刺さってくる、しかし最後の最後で、
『だが君は越えていける/両手を組むのはやめて歩け/もっとマシな嘘をつくのさ/君だけがつける嘘なら/そう悪くはないかもね』
と投げ掛けられたことで、ああこれは背中を押す意図をもった楽曲だったのか、と気付かされました。
真っ直ぐで、厳しくて、あたたかい言葉。

ただ、このあたたかさは、
『君が今切り出そうとする話は/これまで上手に避けようとした話』
という歌い出しにあったように、"君"が主体的に立ち上がろうとしていたからこそ掛けられたものであること、
ただ聴くばかりの私がのうのうと受け取れるような代物ではなさそうだということには留意していかなければ。
いましがたメモを見返して曲頭の歌詞に気付き、ようやく心を引き締めたのでした。

12. 雨の降る庭

オープニング時のように、シンセで作った音色をループとして重ねてゆく。
今度は水音か弦をはじく様な音、高く響く音、上がったり下がったりして伸びてゆく音など。
ある程度仕上がったところでギターを手に取り、イントロをつまびく。

ここまで照明について触れてきていなかったのですが、この公演では照明色や照らし方も曲ごとに凝らされていました。
(私の座っていた3列目中央付近では、ステージ後方の絵を照らすもの、波多野さんを照らすもの、客席側からステージ側を広く照らすもの、アクセント的な用法の豆電球やミラーボールが確認できました)
特にこのときの照明は見事。
ループを作っているときは深い青のステージ照明と黄色の豆電球、
曲が始まると豆電球が消え、客席側からの青い照明とミラーボールが足される。
この反射された弱い点描であるミラーボールの光が、暗い雨の日、窓にはしる雨へ滲む、車などの光が早回しになったかのようで、
はじめの豆電球のような室内の光から、室外の光へと意識を誘導するはたらきをしていたように感じられました。

しばらく緊張感のある楽曲が続いたため、心象風景と実の風景を混ぜ合わせる方面に意識の向いたこの楽曲で妙に落ち着いたのを覚えています。

13. ある会員(新曲)

こちらもループを回したままのギター弾き語り。

大きなシステムのなかで生かされていることへの心理的抵抗も、波多野さんの歌詞に頻出するモチーフですが、
この楽曲ではその抵抗感を寓話的な設定に置く、痛快な代弁のその対極にある表現に。
『だってここは君の大家族だよ/君に存在を与えられる家』というフレーズから、ヴォネガットスラップスティックを連想しました。

14. 青空を許す

こちらもライヴでの定番曲ですが、この日はグランドピアノでの演奏。
イントロからしばらくはメカニカルな質感の弾き方(ソフトペダルを踏んでた?)で、サビの入りで響かせたと思いきやまた抑える、
このまま進行していくのかと思いきや、間奏の最後16小節ほどで軽く響かせたのち高音方面にグリッサンド、勢いを持ってラスサビで圧し上げる!
展開があまりにも見事でした、この曲は魅せかたのバリエーションがたくさんあってすごい……。

15. 水のよう(未発表曲)

引き続きグランドピアノで、こちらではオーソドックスな伴奏を。

『あたまの中の空洞には/誰もいないのさ/あなたは誰にも愛されないから/自分で愛してあげなさい/ばーか ばーか』
このサビの歌詞が、この公演のどの瞬間にも通っていたかのように感じられ、感慨深くなってしまう。

ゆらゆらと伸ばされた声がピアノと一緒のタイミングで断ち落とされる、
音が消えた後の余韻までもを美しく保つ、丁寧な仕上げでした。

16. 聖体(未発表曲)

演奏前に、2020年のソロ活動への展望・構想や、当公演の振り返り(過去と現在を繋げるイメージに"螺旋状"という修飾がされていたのもこのタイミング)を述べる短めのMC。
公演を振り返る流れから、この後に演奏される曲について以下のような旨の補足が入りました。

20歳頃に作られた曲で、詞も今に比べたらぼんやりとしている。
しかし、そういった明晰でないものが却って本質をついてくるということもある。
この公演を締めるのにはこの曲がふさわしいと思った。

シンプルなギターの弾き語りで、その楽曲は展開されていきました。
『煙の町を旅しよう/体を捨てて』
『純粋無垢な欲望なら/許されると思っていたのさ/君と僕は』
書かれて15年以上経っているはずの言葉なのに、照射する技法の根幹が変わっていないのが不思議なようで、
でもそうしてきた方だとわかっているためにこうして観にまできているから、当然のこととして捉えている自分もいて。

抽象的なものごとについてひとつの答えを示すのではなく、ただ見つめることはやめない。
波多野さんの続けてきたことがそのまま顕れていて、彼であるからこそ可能であった選択だったように思います。

曖昧に声が消えていき、照明も気持ちの漂白を促すかのごとき白へ、
公演が慎ましく閉じられていくことを、その場のすべてをもって感じました。

アンコール

アンコールの実施は本来予定されていなかったためか、波多野さんの掲載されていたセットリストには表記がありませんでしたが、
止まないアンコールの拍手に応じ、再びステージに出てきてくださりました。

この日Neil Peart氏の訃報があったためにRushの話題を出し、Everyday gloryを歌おうと試みていましたが、ワンコーラス(?)で断念。
故人を偲ぶというよりは、本当に好きだったからそこまでやってしまったのだろうと推測できる姿で、微笑ましかった……。

本当のアンコールとして選択したのは、"聖体"と同じくらいに?古いという自身の楽曲。
演奏後、「やらなくてもよかったな……」とひとりごちていらっしゃいましたが、
『僕は僕の支配者/でもあたまの中はおしくらまんじゅう』という一節がこの日披露された新曲とリンクしていたような気がして、興味深く映りました。


People In The Boxの作品としてラインナップされている楽曲を敢えて盛り込まず、
過去と現在の波多野裕文が作った楽曲のみで遂行されたワンマンライヴ。
これからも続く追究、それを予感させる姿勢が示されていて、
楽曲テーマの重さからは意外なほどに"いいものを見た"という印象が残りました。
(曲の重みはそれはそれで個別にやってきて、見通せていない部分があることがまた拍車をかけているのか、いまだに割と大変な思いでいます)
明日の京都ワンマン公演を観るとき、今回の公演すらも過去に留まった姿として認識することとなるのでしょうか、
そうであることを期待して向かいます。


お土産として入場者に配布された手ぬぐい、大きめの本を包むブックカバーとして使っています。


丸くあるうさぎのトムくんがかわいい。