批評ではなく、その時々でその作品に寄せた関心事ばかりを記してゆく文章。
3/10・12に配信のあった波多野裕文さんソロのライヴでこの曲を聴き、良くできた歌詞だなあと思い。
People In The Box 天国のアクシデント 歌詞 - 歌ネット
楽曲を一聴、または歌詞を一読しただけで、
なんらかの災厄を体験している人々のありさまが描写されているというのは把握できるのではないだろうか。
……ひとまずこの認識でもって話を進める。
楽曲を聴きながら歌詞を追っていると、具体的な被害状況が示されているわけでもないのに、
それどころか風景や心象の描写は一文ずつ美しくあってすらいるのに、
ここで描かれている災いが、何かとても恐ろしいものであるように感じられてくる。
1番
それはラジオの合図だった
花が降り 空を飾る
森の深くにサイレンを聴く
子守唄のように耳をそばだてて聴きたい声を焦がれても
今日は予想もつかないニュースがきみに訪れる
2番
もう二度とこんな日は
くるはずはないだろう
人々が口々にいった花を手向けるよ 未開封の知らせへと
胸が痛むのは ぼくは今日も笑うから免れた災いをきみが数に入れてくれたらいいのに
ぼくにとっては初めての叫んだほどの美しさ
上記に抜き出したのは、1番と2番それぞれの、サビ部分を除いた歌詞だ。
抜き出してみると、これらの部分では災厄そのものの描写がほぼなされていないとわかる。
それでもこれらの詞が災いの周縁から散逸していない、無関係ではないように捉えられるのは、
ひとつには災いを取り扱うサビを共有部にもつから。ここの掘り下げは一旦留保する。
もうひとつには、点々と配置されたいくつかの語が共鳴を起こしているから。
散りばめられたのは「子守唄」「口々にいった」「叫んだ」……など、音声のかたちをとって場に立ち現れるものを指している語句。
そのなかには「ラジオ」「サイレン」「ニュース」といった、出来事についての情報を載せる音声を指す語も含まれている。
ここには音が飛び交っている。伝える意思のあるものも、ないものも入り交じって。
情報媒体を表す語としてはもうひとつ「知らせ」が使われている。
しかし前後の文脈より、この「知らせ」は手紙やメールのような、リアルタイムな受信を要求されない性質をしているとわかる。
というか、他に挙げられているような伝達に音声が用いられる情報を受信するには、それを発するものと同じ時や場に居合わせる必要がある。
また唯一明示的に音を伴わない「知らせ」、これを宛てられた対象には花が手向けられている。
鳴らない音、開かれない知らせ、そして手向けの花。
充満する死の匂いは、前半部の「花」にまで漂いゆく。
ラジオの合図ののち降り注ぎ、空を飾った「花」は、
死をもたらしうるものの喩えなのではないか。
直接言い当てるのではなく重奏的に言葉を繰り、混乱と死の渦巻く状況に置かれた人々の姿を聴き手に連想させてしまう。
波多野裕文の手腕が光る歌詞だ。
連想で結ぶほかないここまでの描写に奥行きを与えるのが、サビの表現である。
黒く深く速いそいつは
ぶっとばすのさ 天国のアクシデント
サビにおいても災厄の代名詞たる「天国のアクシデント」が何を指すのかについて、具体的な説明はなされない。
みっつの形容詞と迫る煙幕のように転調する音楽に限定し、様子を描きとめるに留めている。
この絞られた描写は、サビを取り巻いている詞が「災厄を被ったものたち」の視点で刻みつけられていることに起因するのではないか。
災厄を被った当事者たちは、被害の全容を把握できない。少なくとも渦中においては。
しかしその災いに音があったとき、それはすべてはっきりと聞こえてしまう……災厄との距離が近いほどに。
前段でも述べたように、主体たちは音声の渦巻く場に存在している。
その記憶を保ったまま突入するサビにて災いと音の関係が繰り返し結われるために、
回避できない災いの只中に彼らが存在しているのだと、聴き手はその認識をより強く持ててしまう。
2014年リリースの比較的新しい作品である"天国のアクシデント"。
楽曲からも制作時期からモチーフとなった災厄の正体を推定するのは困難だ。
そもそも、私たちの生きる歴史の中に現存している出来事であるかすら、特定できるように作られていないようにみえる。
もしかすると、この作品は特定の災厄から書き起こされたようなものではなく、
近・現代に起こったり想像されたりして生じたあらゆる災いのなか生きた人々の叫び、
それらから抽出される形で生まれたものなのかもしれない。
いままさに世界を覆っている事態、それを被る当事者であるがゆえに配信で演奏を観た2021年3月の私にもたらされた慄え。
このあまりに個人的な体験に鑑みても、そんな気がしてならない。