あなたのノイズ、わたしのミュージック。

自分が何にどう関心を示したかの記録。

2021年11月の告知と余談: 音楽ZINE『痙攣 Vol.2 もう一度ユートピアを 国内音楽特集』に寄稿いたしました。

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 掲題の通り、こちらのZINEに寄稿させていただきました。
れみどり名義で「世界への問いかけ ―People In The Box論―」といった論考を書いています。
音楽をみつめる皆様の一助となりましたら幸いです。
何卒よろしくお願いいたします。

 便宜的にハンドルネームで参加しましたが、逃げられない覚悟はできていますので、
ご意見・ご感想などありましたらブログのコメントや各種のSNSなど、お好きな手段にてお寄せください。


 愛聴している音楽について、愛読しているZINEに寄稿できた、というだけでも大変なことでしたが。
もっと的確に書けるようになりたいとの心が芽生え、柳樂光隆さんのライター講座(講師陣には波多野さんもおられました)に参加したり、
その講座を受けていると聞きつけた伏見瞬さんからLOCUST+のお話をいただいたり。
できごとがいくつかのできごとへと連鎖していったのも、自分の人生に起きたことながら、とっても面白かったのでありました。


 といった内容の告知記事でした。以下はいくらかの余談です。
ネタバレはありませんが、ノイズとなるおそれがないとは言い切れません。
それでも私にとっては誇るべきレコード。



書いたものについて

 People In The Boxの音楽について検討する機会を李氏さんからいただいたのは、
休職していた会社とモメながら引き篭もる日々を送っていた、2020年夏のことでした。
(余談も余談ですが、そこは辞めていまはわりと楽しく働いています)
行動を抑制していたはずのコロナ禍は他人ごとでこそなかったけれど、自分ごとにもならず。
音楽や文学、マンガなどの作品に生き方をならい、生きることに期待をかけるばかりの時間に私は在りました。

 そんなときに書かれた8000字弱をいま読み返してみると、
そこまで生きる気でいなくたって生きられるのに、と苦笑いしてしまいます。
しかし、その苦笑は自分の体験を懐古して湧き上がるだけで、
状況そのものは至ってシリアスな性質をしている、それを私は私の体験から知っています。
いま現在にも、未来にも過去にもどこにでも在るであろう、ありふれたパターンの、
それでも大真面目な生。


 そんなような、普遍的ないまを生きているひとつがPeople In The Boxの作品たちであり、作者たちであると私は思っています。
しかしPeople In The Boxが特異にみえるのは、
その「普遍的ないま」が「過去の作品」となったとしても笑いのなかに封じずに対面している、
そしてその姿を提示し続けているためでしょう。
それゆえに誰に聴かれても、聴き手自身の「いま」が無関係にならないまま、音楽も存在も響き続ける。


 People In The Boxは、わたしたちも生きている2021年にも活動をしている。
きっとそれだけのことであるはずなのです。



書いたことについて

 People In The Boxに対する認識が私の中で確立されている、書ける理由がそれだけであるならば、
伝える手段はZINEへの寄稿でなくたって良いはずなのですが、
執筆依頼をお受けしたのは私が『痙攣』を音楽メディアとして信じていたためなのだと思います。


 痙攣の創刊号に載っていた各論およびそこから波及して生じた検討の数々には、
それらを起こした人の数だけの、音楽に端を発することのみ共通した知がありました。
そのひとつひとつは中身の詰まった塊でした。

 私は、私からみたPeople In The Boxだけではなく、痙攣のまわりにいる方々の、
音楽と結ばれたたくさんの目でみつめられるPeople In The Boxも知りたいと思いました。
もちろんそれはわがままに近い願望であり、それを正当な手段で通したいのならば、
そして機会が与えられたのならば、私自身でそのきっかけを書くしかない。


 今回の論考は、私が私の人生で書いた文章で唯一、野心を込めて書いた文章です。



 つまるところ、本論考はPeople In The Boxと痙攣発行者、痙攣読者のみなさまが今日まで確実に存在していたそのおかげで形となったものです。
ここに一方的な謝辞を示します、ありがとうございました。