あなたのノイズ、わたしのミュージック。

自分が何にどう関心を示したかの記録。

雑記(202003112244)

これを書く必要が本当にあるのか否か、その検討の拒否を前提として書かれる文章。


記事タイトルの由来は中学の卒業文集に宛てた文章のタイトル。

私にとっては卒業文集がまさに、冒頭の一文で言い表せるようなもので。
衆人環視の的となることを意識して書かれた"当時の自分のすがた"から、後の自分や他人が何を読み取れたものだろうか。
「って当時から思っていたみたいで、締切寸前まで『提出する必要がないから書きたくない』とかなんとか揉めていたわよ」と最近になって母から聞かされ、
結局当時の自分のすがたを、書かれていたよりもかなり正確なディテールで、認識できてしまった。

へんにものを残すと、それにどのようなテクスチャがまとわりついてしまうか、存在意義が宿ってしまうか、わかったもんじゃない。


自分自身を、なにか残るようなものに落とすことをやめず、そのものに宿った自分自身に向き合うこともまたやめない人が好きだ。
落とし込まざるをえなかった人であるほど好きで、向き合う手段を惜しまない人であるほど好きだ。
破滅的とみてとれるほど切実なその行動を、私は羞恥し躊躇いまともに遂行できた試しがないからだろうけれど。

そのような人々が保たれることによって、保たれる人々もいるのだと、想像がされること。
私の想像のつかないような何パターンもの"そのような人々"と"保たれる人々"のためにも、
人間の想像力のベースアップがなされることを、切に望んでいます。


当初は今年以降この日にはSNSから離れてやると決めた理由をねちねちと具体的に書くつもりでいたのですが、
衆人環視の的となることを意識して書かれるものと認識していながら(あえて)醜い姿を晒すようなことが許されるのは、
分別のつかない学生さんまでだよねー、ってなったのでこういう形になりました。


あとは今日した散歩の話をしますね。


整形外科から帰る午後、軽くなった足腰と気候がレンタルサイクルのかたちをとって眼前に現れた、わけではないはずだが、
病院を出たすぐのところにあったそれらに心惹かれ、乗って帰りました。

電車で130円の区間を15分利用するごとに70円課金されるチャリで駆け抜けるのに必死だったので、乗った後の写真はありません。


このタイトルだけだと同様の記事を積み立てた際に判別が困難となるため、
識別番号(西暦年月日執筆開始時刻)を付け足しました。
つまりしばらく積み立てる予定があるということ、
ひとり暮らしのこの部屋には私の葛藤を記憶する母も、誰ひとりもいないので。